本日、12月15日。強から年賀状の受付が始まった。

この時期になるとテレビでは年賀状のコマーシャルが目につくようになる。なんか日本人の伝統行事、日本人がこの地球上に生まれてからずっと続いているような行事のような、それをしないと日本人じゃないみたいな勢いでコマーシャルに出てくる人たちは年賀状に狂乱している。

消費行動としてはおいしい行事なのだろう。でも
既に「年賀状」という行事は終わっているのではないか。
特に「喪中につき年賀欠礼」という習慣はあたかも「礼儀正しい」行いということになっているが。喪服を着ることもなく、年賀状だけで喪中なんて。

どうも消費の種としてのみもてはやされているようで、
売らんかなの「売る側」の思惑だけが目に余り、郵便局の年賀状の扱いも親切そうでいてあまりにもしゃくし上記、画一的。というわけで最近ではあたり番号を調べることさえしなくなった。

今年も又年賀状を買った。今年も又出すだろう。それは惰性に過ぎない。

オイラがお子さんだった頃。年賀状が出せることが至上の喜びであった頃。それは小学1年生の頃だと思う。昭和32年のことだろうか。それは字が書けるよろこび、字が読めるよろこび。自分の手から離れたものが宛先に届くよろこび。その頃、テレビもなかったからコマーシャルもなかった。年賀状の当選番号を決める様子がラジオで実況中継されていた。翌日は新聞を見ながら当たり外れを何度も確かめた。たいてい切手シートが2,3枚当たるだけだったが。それは大変な楽しみだった。

よろこびを持って年賀状を書けたのは4,5年で終わった。年をとると様々な悩みが発生する。恋心。いかに伝えん。に年賀状がアイテムとして登場する。その置き土産は重かった。5,6年後にこの世から消えてしまった人からの年賀状は忌まわしいものであった。未だに在るから嬉しいという気持ちにはなれない。こんなものは無くて年取る人間の方に在ってほしかった。これは生きている限り続く無念である。